満開の桜を見に、出町柳のの師範桜からスタート、銀閣寺道から、哲学の道、南禅寺、
そして平安神宮へ歩きました。
非常にポピュラーなコースで人がとても多かったのですが、
思ったほどでもなく、素晴らしくいい天気で、満開の桜はとても綺麗で楽しめました。
今年は4月9日、去年は4月3日だったので、去年よりもちょうど一週間遅く、去年も同じことを言っていた
のですが、
「私たちは、すごくラッキーですね。」
でも、これだけ人がいるってことは、何万人の人出か知らないけれど、みんな同じこと
を言って、自分たちだけがラッキーだと思っているでしょう。
15日には会社の花見があって会社の構内で従業員が集まって
花見大会だったのですが、八重桜は咲くのが1週間から2週間、遅れるのですが、やっぱり
ほころび始めたところで、満開とは行きませんでした。その後、引き続き守口で飲んでいたら、
最終を乗り過ごし、淀からタクシーに乗るはめになりました。What'sNewを見直してみると、
4月に入ってから、4回飲みに行って、2回タクシーを使っています。そんなに偉くなったわけでもなく、
給料が上がるわけでもないらしいので、困ったもんです。そのうえ、
プロジェクトの状態を鑑みると、そんなことでいいのか、怒られてしまいそうです。
近所には、出町柳近辺や、疎水沿いの桜がとても綺麗ですが、なんといってもご近所の 桜がとてもきれいです。こんなところまで観光客は来ませんから、シーズンでも周りの 雰囲気は普段と変わりありません。
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ご近所の桜の木 | 見事に満開 |
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桜の花びら | 16日にはもう散っていましたが、
これからが、いい季節 |
遊んでいるばかりではなく、
ここのところ、マネジメントに関する勉強をしよう、と考え本を次々に読んでいるのですが、
16日にやっと最強組織の法則
(著:ピーター・M・センゲ、訳:守部信之ほか、発行:(株)徳間書店、1995年)
を予定どおり読み終えました。お勧めです(注1)。
そうだよな、そうだよな、と納得して読める本を読むのは、実は、新しいことを学んでいるのか
怪しい、とも言えますが、
実際には、日頃苦しんでいるところ、困っていることを違った視点から眺めることができ、
体系的に「どうするべきか」について考え直すことができるので、一つ賢くなったような気がする
のは事実です。
この本は、C.H.ケプナー・B.B.トリゴーの「
ラショナル・マネジャー」、
スティーブン・R・コビーの「7つの習慣」に通じるものがありますが、
原題は"The Fifth Discipline -The Art and Practice of The Learning Organization"、すなわち、
「5番目の原則・学習する組織の方法と実践」ということで、表紙カバーの大きなVはローマ数字の
"5"なのです。やっぱり意識しているのかな?
こういった本は、いわゆるハウツーではありません。特効薬でもありません。
どう実践していくかは、示されている考え方、物事の捉え方、それらを自分で咀嚼し自らを高め、
腹をくくって、正解のない現実の問題に対処していくしかないのです(注2)。
ってなことを書くとなんだか偉そうですが、仕方ありません。
うまく行かなくて困っているのは私自身なので...。
こんなとき、あのM先輩やH先輩だったらいったいどう行動していただろう、と考えるときがあります。
「Hさん、そのカードはいったいなんですか?」
「おう、これだけパウチするのは結構大変だったぞ。」
「なんですか?これは...。京阪の時刻表じゃないですか。会社のワープロで何をしているか
と思えば...。しかも、クリーンルームの準備室でわざわざパウチまでしてきたんですか。」
「枚方市での連絡早見表まで作って便利にしたぞ。どうだ、一枚買わないか?」
「ええ?これ売るんですか?」
「この前作ったのもよく売れたし、このダイヤ改正を期に全面的に作り変えた。どうだ?」
「・・・」
あのころって、今よりノンビリしていたのかな。それとも個人の問題なのかな。そういえば、あの先輩は
なんだか偉そうだったよな、何してても。
以前にもちょっと紹介しましたが、
私の会社では「所感」といって、懲戒、じゃない、朝会や昼会の際に、
日頃感じていることや、仕事の話や、決意など、なんでもいいので発表する
習慣があります。15日に半年ぶりに所感に登板することになっていたので、いろいろネタを考えている
うちに明け方の4時すぎになってしまい、朝は6時に起きて会社に行ったため、
仕事中、しんどくてしんどくて、いや、寝ていたんじゃないですよ、考え事をしていただけです、
なにしろ、動きの早い昨今のことですから、より深く寝たほうが、もとい、より深く考えたほうが
勝ちです。
ネタは準備していたのですが(所感番外編)、朝の一番からタイクツな
話をするのもなんだし、なにしろ、高給取りの本部技術部門の所員が集まる、とんでもなくコストのかかる
朝会です。少しはタメになる話をしないといけないし、当たり障りのない、つまらない仕事の話をするのも
イマイチです。お説教じみた話をするのも「ずいぶん偉くなったらしいな、あいつも」と
イヤミを言われそうで面白くありません。
そこで、考え直すことにして、ウンウンうなって考えたのが、
こんな所感です。でも、こうして見直してみると、考えなおした割にはあまり変わってないよなぁ。
結構練習したんですけど、全然、ウケませんでした。どうも、私のしゃべりでは
笑いがとれないんですよ。
そんなこんなで、 参事昇格の記念写真が届きました。大きな声でちょっととぼけたお顔の副社長の横に なんだか偉そうに座っているのが私です。わけがわからないことばかり 言うくせに、
なんの根拠もなく偉そう
というのは、私のことですが、
こんなことで目立たなくても、仕事さえうまく進んでくれればいいのですが、
なかなかそうはいきません。
少年のような笑顔で、ちっとも偉そうでない
そんなPMといえば、パット・メセニーっていいよなぁ、こんなに凄いギタリストなのに、と思いながら2005年の新作"The Way Up"を、ぼんやりと
聴いてます。お勧めです。
4コママンガ<ハムとラン> とキャラのページ (c)Shimamura,T |
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hardy@max.hi-ho.ne.jp |
注1)身につまされるところを
引用しましょう。少し長くなりますが。
多くの偉大な「カリスマ的」リーダーたちも、深い目的意識とビジョンをもっているにもかかわらず、
もっぱら問題発生レベルで物事に対処している。このようなリーダーたちはビジョンと危機の
両極端に取り組み、その間を埋めようとしない。彼らは高尚な目的意識と使命感をはぐくみ、
莫大なエネルギーと熱意を生み出す。
しかし彼らのリーダーシップのもとでは、組織は次から次へと危機に直面することになる。
そしてついにメンバーの世界観は、個々の問題と、それらにいかに対応するかということばかり
に占有されるようになる。人々はつねに危機から危機へと引きずりまわされ、自分の将来はおろか、
自分の時間さえコントロールできない。その結果、組織のビジョンのみならず、ビジョンという
概念そのものに対し、情熱を失ってしまうことになるのだ。ビジョンが根づくべき土壌−
われわれは自らの未来を変えていけるのだという信念−が汚染されてしまうのだ。
注1−2)もうひとつ
一方、ビジョンのセンスを持ち、個々の問題だけでなく、さまざまな変化のレベルで仕事
をすることのできる「ビジョン戦略家」的リーダーにも、同じような問題が起こりうる。
(中略)
「ビジョン戦略家」の多くは、自分でも説明できないような豊かな直観力によって変化の原因を察知する。
しかし彼らは
そこから導いた戦略や方針を他人に強制し、人の決断につねに干渉するため、ややもすれば独裁的
リーダーになりかねない。彼らの価値観が独裁的リーダーシップとは対極にあるにもかかわらず、
このような状況に陥るのは、彼らがただ、どのような決断が必要かということだけに注目するからだ。
注1−3)さらに
彼ら(すばらしいリーダーのこと=引用者注)の特徴は、その考え方の明解さと説得力であり、
責任感の強さであり、つねに学びつづけようとする前向きの姿勢である。彼らは「答えを知っている」
わけではない。しかし彼らは「心底から欲する結果を達成するために必要な事柄は何でも学ぶことができる」
という自身を、周囲の人間に植えつけることができるのだ。
彼らのリーダーとしての資質は、生涯をかけて積み重ねてきた努力の副産物である、と私は言いたい。
それは、概念創出とコミュニケーションの技術を身につける努力であり、個人としての価値観を吟味
して、自分の行動をそれに近付けようとする努力であり、また、他人の考えを聴き、何かを学びとる
方法を身につけようとする努力である。こうした努力を惜しんでいては、たとえカリスマ性があった
としてもそれは見かけ倒しであり、その影響を受けた部下たちも、自分で考え、賢い選択をする
ことはなかなかできない。それどころか、ひいてはそれが組織や社会を破滅に追いやることにも
なりかねない。
注2)少しくどくなりますが
正解がないので、リスクがつきまといます。そのリスクをとりに行くことが大事なのですが、 それが「腹をくくって」という内容です。